勇ちゃんの課題曲解体新書 課題曲Ⅲ 僕らのインベンション

吹奏楽連盟は毎年、すでに日本の音楽界で大活躍されている作曲家に課題曲として作品を委嘱しています。これは大変素晴らしい試みで、今後、映画やドラマの音楽をフィールドとしている作曲家、あるいはアニメやポップスをフィールドに活躍している作曲家にまで委嘱が広がるとおもしろいな、と個人的に密かに楽しみにしていることでもあります。
ともかくも、その委嘱作品が課題曲IIIとして毎年発表されるわけですが、ベテランの作曲家の作品と言うのはやはりおもしろい。いや、こういう言い方だと、課題曲III以外の作品の質を問うているように思われるかもしれませんが、そんなことは全くありません。それぞれの課題曲に(わたしの一連の分析で見てきたように)おもしろさや、興味深いところがあるのは間違いありません(ですから、課題曲の『質』が落ちているだのどうのという議論の前に、まずしっかり自分自身の手と耳と目で『分析(分解ではありません、分解したものをしっかりと自身の視点でもって再構築することを分析と言っています)』をしていただきたいわけです、議論はそこからはじまります)。
では、なにがおもしろいのか。それはベテランならではの世界観と語法が楽しめる点、そしてまた、作品の比較が楽しめる点にあります。例えばW.A.モーツァルトやL.v.ベートーヴェンにしても、初期の作品のおもしろさは、後期の「傑作と呼ばれる作品」と比べた時に気がつく場合があります。それと同じように、同じ作曲家の異なる時期の作品を比べることで、その作曲家の、まあ簡単に言ってしまえば「特徴」のようなものが浮かび上がってくることがあります。
「朝日作曲賞」や「全日本吹奏楽連盟作曲コンクール」に応募をしている作曲家は、(おそらく多くの場合)まだ作品があまり世に出ていない、あるいは作品はある程度出ていてもその評価が十分になされていない作曲家が多いと思います。そのような作曲家の課題曲では、上述のような比較は望めません。しかし、課題曲IIIの場合は、それが可能なのです。ここでは、その方法を用いることはしませんが(なぜなら、今回の企画は課題曲全曲を分析することですから、全体として方向性は統一しなくては不公平だからです)、興味のある方は、ぜひ「比較」ということにも挑戦してみてはいかがでしょうか。

さて、そんな課題曲III、今回は宮川彬良さんの《僕らのインベンション》です。
宮川さんと言えば、わたしの世代(アラサー)は、NHK教育テレビ(今のEテレ)の番組『クインテット』、そしてなにより松平健さんの歌う《マツケンサンバII》が頭に浮かびます。ミュージカルやショーの分野でも活躍されている作曲家なので、今回の《僕らのインベンション》にも、そのバランス感覚がとても良く活かされています。

そんな宮川さんの作品なので、どちらかと言えばポップな感じなのだろうと思えば、大間違い。
ともかく、まずはこれまでの分析と同様、『すいそうがく』を読んでみることにしましょう(《僕らのインベンション》の解説は『すいそうがく』と『課題曲III総譜』は同様のものが掲載されています)。宮川さんの言葉を一部取り上げてみましょう。

[…]僕らは常にどんな音楽であろうと、たったひとつの法則に支配されて作曲しています。それは「導音は主音に行きたがっている」「解決したがっている」というたったひとつの法則です。そうベートーベン[原文ママ]だろうがドビュッシーだろうがこの法則を無視できません。僕らの先輩たちが1000年くらい掛かってまとめ上げた「音楽理論」とは、煎じ詰めればこの一点に尽きるのです。
[…]僕はその事を、その「音楽理論」の素晴らしさを謳歌するような曲が作りたい、と思いこの「僕らのインベンション」を作曲しました。
(『すいそうがく』No.212 p. 2 – 3)

「音楽理論」の核が「導音」であるかは、議論の余地があると思いますが、宮川さんの言っていることに一理あるのはたしかです。

音楽理論の研究は非常に古くから存在しています。すでに古代ギリシャの時代には音律の議論が行われ、その代表的な人物であるピュタゴラスが唱えた音楽観は、その後もヨーロッパ全土で語り継がれ、徐々に文字として残ることになります。例えば、6世紀にローマの哲学者ボエティウス(480? – 524)が著した全5巻から成る『音楽教程』が、ピュタゴラスの理論を取り上げています。その後、理論と作曲の実践は同時に進行しつつ発展、スイスの理論家H.グラレアヌス(1488 – 1563)の『12旋法論』、イタリアの作曲家・理論家のG.ザルリーノ(1517 – 1590)の『ハルモニア教程』(1558年、73年改訂)、などを通りフランスの作曲家・理論家のJ.-Ph.ラモー(1683 – 1764)の『自然の諸原理に還元された和声論』(1722年)で、ついに今わたしたちが口にする「音楽理論」や「和声」の基礎が完成しました。
少し難しい話になってしまいましたが、ともかく音楽理論とは紀元前から現代にいたるまで、(ヨーロッパの)音楽の基本的なルールとして確かに存在している、ということです。音楽理論、特に和声の歴史についてより知りたい方は西田紘子、安川智子 編『ハーモニー探求の歴史 思想としての和声理論』(2019, 音楽之友社)をご覧になってみてください。

さて、宮川さんが強調する「導音」はすでにご存知だと思います(譜例1)。

譜例1:音階における核音の名称(役割)

 音階の第7音は主音へ進む、というのが音楽の基本的なルールのひとつです。宮川さんが「導音は主音に行きたがっている」、「解決したがっている」と言っているのはそのことです。それなら、簡単ですね。その部分の調を明らかにすれば、自ずと導音は見つかるはずです。
しかし、宮川さんの解説をさらに読み進めてみると…。

もうひとつ言っておきましょう、「下降導音」というのもあるのだ。
(『すいそうがく』No.212 p. 3)

導音は主音へ進む、すなわち2度(半音)「上がる」音のはずです。なのに「下降」とは一体どういうことなのか、なんだかこんがらがってしまう方もいるでしょう。この話をはじめると、それだけでこの原稿の文字数を使い果たしてしまうのですが、少しだけでもヒントとなることを考えてみようと思います(それに宮川さんは『ま、この二つで充分ひと夏遊べるでしょう』と言い残しているので、この理論についてすべてを明らかにはしません。自分で調べてみる、というのも新しい知識との出会いに必要不可欠なプロセスです!)。
いつ曲の分析に入るんだと思っている方、申し訳ありません。今しばらくお付き合いください!

最初に断りを入れておきたいのは、宮川さんは「下降導音」と「下降」の字を使っていますが、音楽理論研究の中では、一般に「下行導音」というように「下行」という字が使われているため、ここでも以降「下行導音」と記します。

つい先ほど挙げたような音楽理論家たちは、物理現象やその理論などを用いて、とにかく客観的に、説得力のある音楽の理論を打ち立てようと頑張っていました。その中で、長調のトニカ(主和音)は、ひとつの基音の上に出来る自然倍音列の中にある、ということに気がつきました(譜例2)。

譜例2:自然倍音列

 譜例2の四角で囲んだ「4・5・6」の倍音がC・E・G音という長三和音になっていますね。
このようにして、長調は自然の中に起こる現象と上手く結びつけられました。しかし、短調はそう上手くいかないのです。譜例2の倍音列を見ても並びの中に短三和音はありません。
そこで、19世紀の理論家たちは、基音の上に出来る自然倍音列を下向きにひっくり返した「下方倍音列」というものを仮定したのです(譜例3)。

譜例3:下方倍音列

 そうしてみると、なんと譜例2の中で「長」三和音が出来ている「4・5・6」の部分が、譜例3ではE・C・A音という「短」三和音になっています!ついに理論家たちは短調を長調の原理と結びつけるのに成功したのです(ちなみに譜例2の倍音列は実際に耳に聴こえますが、譜例3は聴こえません。ここで、また新しい問題が生まれるのですが…それはまたいつか機会があればお話ししたいと思います)。
つまり、長調は上へ向かう倍音列、短調は下に向かう倍音列に基づいているというのです。このような考えを「和声二元論」と言います。この考えに基づいて、音階も同じように長調を上に向かって、短調を下に向かって考えてみると…(譜例4)。

譜例4:譜例2・3の各倍音列に基づいた長音階(上段)と短音階(下段)
(枠で囲われている部分は短2度の音程を取る部分)

 なんと、音階もシンメトリーな構造になります!そうすると気がつくことがありませんか?
長調で「導音」の役割を果たしている第7音(H音)は、主音(C音)へと半音「上がって」いますが、短調の第7音(F音)は主音(E音)へ半音「下がって」いるのです。
「和声二元論」を唱える人々にとって、短調の音階は下へ向かって書かれるべきであり、よって短調の音階の本来の導音は、今のわたしたちが短調の音階の第6音としている音なのです。この考えを取り入れるならば、短調の導音は本来「半音下へ下がる」べき音だと言えるわけです。
そのため、現在の短調の音階の第6音を「下行導音」と呼ぶ場合があるのです。長調では「上行」する導音が、短調では「下行」するのは不思議ですが、短調の音階に「自然短音階」以外に、「旋律短音階」や「和声短音階」があることから、今わたしたちが使っている短調の導音は、「作られたもの」であることにすぐ気がつくのではないでしょうか。
「作られた」導音が用いられるようになってしまったものの、この「下行導音」実は和声の中に生き残っています。それは、《僕らのインベンション》を通して見ていくことにしましょう。

それと、もう一点だけ注意を。
導音は、宮川さんの言葉を借りれば「主音に行きたがっている」「解決したがっている」音ですが、実際の音楽作品の中では、導音が主音に行かないことは多々あります。例えば、和声理論が確立し普及する以前、つまり18世紀以前の音楽では「導音が主音に行かない」ことが多々あります。また、18世紀以降の作品でも声部の響きのバランスを優先し導音を主音以外の音へ進ませるということがあります。《僕らのインベンション》でも、そのような部分を見つけることができます。

さてさて、この話題、個人的には大変おもしろいのですが、そろそろ曲の分析に進まなくては…。この理論について気になる方は、前出の『ハーモニー探求の歴史』と合わせ、アンリ・ゴナール(藤田茂 訳)『理論・方法・分析から調性音楽を読む本』(2015, 音楽之友社)をご覧になってみてください。特に後者はわたしの師匠が翻訳された、わたしの愛読書でもあります。大変おもしろいですよ!
さて、これまでと同様、まず《僕らのインベンション》の全体の構造を簡単に示しましょう(図1)。

図1:《僕らのインベンション》の形式

 全体は、テーマとそれに続くエピソードが交互に現れるため、一見古典的なロンド形式のように思われますが、テーマは出てくる度、多少の変奏を伴い、T. 106以降ではエピソードというよりも、冒頭のテーマとT. 106以前に現れたエピソードが結合したように見ることができます。そのため、いわば「発展的ロンド形式」とでも呼ぶことができる構造になっているのではないかとわたしは考えています。

それでは、冒頭から見ていきましょう。
《僕らのインベンション》の中心となるのは、間違いなくこのテーマです(譜例5)。

譜例5:《僕らのインベンション》T. 2 – 7

 このテーマ、わずか4小節間しかありません。8小節間とすることも間違いではありませんが、ここで4小節と書いたのにはわけがあります。
譜例5は「反復進行」と呼ばれる和声の技法が用いられています。「反復進行」とは文字通り、和声を「反復」させる技のことです。譜例5のT. 2の2拍目とT. 3の1拍目の組み合わせが、その後も続いているのがわかりますね。そして、この反復は譜例5のT. 6(《僕らのインベンション》のT. 7)で一度落ち着きます。そして、その後、この4小節間の短いまとまりを、徐々にオーケストレーションを厚くしつつ、またリズムにも手を加えつつ3回繰り返されています。4小節で一度和声の句切りが付いていて、オーケストレーションやリズムに変化が付くのも4小節単位なため、ここではテーマを4小節としたわけです。
この4小節のテーマ、実はF-Durでもd-Mollでも分析することができます。図1で「導入」としたT. 1 – 2のみを聴くとあたかもF-Durの音楽が始まったように聴こえますが、T. 7にたどり着くころにはd-Mollの音楽に聴こえているのではないでしょうか。
これは実に興味深いテーマの在り方で、分析に入る前に見てきた「和声二元論」の考え方、つまり長調と短調が表裏一体であるということを良く表しているようにわたしには思えてなりません。
さて、この短いテーマですが、「反復進行」を用いているという事の他にも特徴がありますね。そう、「旋律」と「伴奏」というような関係ではなく、すべての声部が独立しているように見える点です。このような独立した声部がいくつか存在する音楽を「ポリフォニック」な音楽と呼びますが、その代表的な音楽がフーガやカノンです。そして、ポリフォニックな音楽が音楽の中心だったのが15~16世紀のバロック時代です。
《僕らのインベンション》という題名の「インベンション」とは、修辞学の用語に由来するもので、その本来の意味を説明すると大変難しくなってしまうのですが、誤解を恐れずに言えば「着想」を意味する言葉です。
バロック時代を代表する作曲家のひとりJ.S.バッハ(1685 – 1750)も「インベンション」という作品を残しています(BWV 772 – 786)。このバッハの《インベンション》はふたつの声部を持った鍵盤楽器のために書かれています。その影響かはわかりませんが、《僕らのインベンション》のテーマもポリフォニックに書かれているようです(ちなみに、反復進行というのもバロック時代の音楽の常套句です)。
また、バッハは自身の《インベンション》について、「演奏と作曲の着想の手引きとして創作した」と書いています。「インベンション」という曲種は、その作品を基に、演奏や作曲の訓練を行うものである、ということを忘れずに《僕らのインベンション》にも取り組めると良いかもしれませんね。

さて、このポリフォニックなテーマがT. 18でd-MollあるいはD-Durのドミナンテに至ると、第1エピソードへと進みます。
この第1エピソードはalla spagnolaと指示された、3/4と6/8が交代する音楽です。ここで「スペイン風」なのはリズムの面のことだと考えられます。3/4と6/8が交代するのはスペインを含むラテン系の音楽の特徴で、例えばJ.ロドリーゴ(1901 – 1999)の《アランフェス協奏曲》第1楽章や、L.バーンスタイン(1918 – 1990)の《ウエスト・サイド・ストーリー》の〈マンボ〉、を聴いてみると、このリズムパターンの使い方がよくわかるのではないかと思います。トロンボーンやトランペットの旋律の三連符も特徴的ですが、これはスペインの音楽よりも、スペインの音楽に影響された作品、例えばM.ラヴェル(1875 – 1937)の《鏡》第4曲〈道化師の朝の歌〉やE.シャブリエ(1841 – 1894)の《狂詩曲「スペイン」》などが参考になるかもしれません。
実は、この第1エピソード自体の和声は非常に明快です。スペインの音楽で多用されるロマの音階などが用いられているわけではなく、ドミナンテとトニカの交代を中心に作られています。
ここでは、第1エピソードの終わりの部分を少し詳しく見てみることにします(譜例6)。

譜例6:《僕らのインベンション》T. 42 – 45の和音要約

 T. 42以降、T. 46のD-Durのトニカを目指してドミナンテ領域が形成されますが、ここで現れるのがT. 44、譜例6でN6と記号付けされている和音です。この和音は「ナポリの和音」と呼ばれるもので(《トイズ・パレード》にも出てきましたね!)、d-MollのIIの和音の根音(E音)を半音下げた和音(Es・G・B音)を借りてきたものです(ここでは第1転回形なので6の数字が付いています)。
そして、この「ナポリの和音」こそ、最初に長々と書いていた「下行導音」の影響を受けた和音なのです。つまり、ここでは「ナポリの和音」の構成音であるEs音が下行導音の役割を持っていて、D音へと向かおうとする性質を持っているのです。ここまでD-Durを中心にしていた第1エピソードの終わりで、わざわざ短調の影を落としたのには、理由があります。それは簡単、またテーマのd-Mollを呼び戻すためです。実は「ナポリの和音」が現れた理由は他にもあるのですが、それは《僕らのインベンション》の続きを見ていけば明らかになっていくはずです。

「ナポリの和音」を契機に、T. 49から再び冒頭のテーマが現れます。和音の構造は変わりませんが、やはりリズムなどが冒頭とは変えられています。さて、T. 49からのテーマも、冒頭と同様D-Dur(あるいはd-Moll)のドミナンテを形成して、D-Dur(d-Moll)へ進むかと思いきや、どうやら様子がおかしいですね(譜例7)。

譜例7:《僕らのインベンション》T. 59 – 63

 D-Dur(d-Moll)のドミナンテから、トニカへと解決するのではなく、「ナポリの和音」のドミナンテへと進みます。さらに言えば、T. 62 – 63に見られる上声部のA音→B音と、下声部のCes音→B音という動きは(B-Durとb-Mollの音階で考えると)、「(上行)導音」と「下行導音」の動きに他なりません。これをほとんどユニゾンで奏するのですから、その効果はみなさん十分に感じられるのではないでしょうか。

さて、D-Dur(d-Moll)の「ナポリの和音」はEs・G・B音でした。その「ナポリの和音」のドミナンテということは、つまりEs-Durのドミナンテということにもなります。そのため、譜例7の「ナポリの和音」のドミナンテに続いて、Es-Durの第2エピソードが始まるのです。
この第2エピソードも、第1エピソードと同様、和声は非常に明快です(半音階の扱いには注意!)。T. 80 – 87は、H-DurからEs-Dur、そしてD-Durと転調するものの、全体はドミナンテとトニカの進行を繰り返すのが中心です。T. 88でEs-Durに戻り、T. 94でテーマの断片が一瞬現れますが、すぐに推移部分へと進みます。
この推移部分は、期待を裏切られる楽しさを味わえる部分です(譜例8)。

譜例8:《僕らのインベンション》T. 95 – 105の和音要約

 推移の始まりであるT. 95からEs-DurのドミナンテであるB音がバス声部に保続されているため、その後、トニカ(Es音)に解決することが期待されますが、なんと《僕らのインベンション》ではG-Durに転調するのです!
実は、G-Durのトニカ(G・H・D音)とT. 100の最後に鳴るDes・F・As音は、ポップスで言う「裏コード」という関係なので、響きのニュアンスは近いものがあります。そのため、この転調は極めて自然に聴こえるのです。さらに、T. 95からB音→H音→C音→Des音→D音と半音階で上昇していく声部があるため、非常に滑らかに転調していくことが可能になっています。

T. 106からは結合部です。何が結合するかと言うと、テーマ、第1エピソード、第2エピソードの各旋律です。ここで、各部分の主要な旋律をまとめてみましょう(譜例9)。

譜例9:《僕らのインベンション》3つの主要旋律

 この3つの主要な旋律を踏まえて、T. 106からの結合部を見てみると、その特徴が良く分かるのではないかと思います。例えば、T. 106からの第3クラリネットとトロンボーン、ユーフォニアムの旋律は、第2エピソードを基にしています。音の構造は異なりますが、アルペジオ的に上昇と下降を繰り返す旋律の構造が引き継がれています。また、同じ部分のアルト・サクソフォンはテーマの16分音符を繰り返しています。
T. 110 – 113は、多くの木管楽器群はテーマの旋律を奏していますが、よく見てみるとここのリズムは6/8+3/4のように取れます。これは第1エピソードで特徴的なリズム構造でした。
その後も、このような要素を繰り返しながら、T. 122以降では第1エピソードの旋律が明確に再現されていきます。
この結合部の頂点はT. 126でしょう。テーマの旋律と第2エピソードのアルペジオ要素を取り入れたフルートや第1クラリネットの旋律、第1エピソードの旋律に基づくトランペットやホルン、そして、打楽器と低音楽器群は第1エピソードのリズムパターンを作ることで、《僕らのインベンション》で現れた主要な旋律が一堂に会することになりました。

この豪華絢爛な様で終わっても良いはずですが、真のコーダを作るために、もう一度テーマが現れます。T. 137から冒頭の再現を行いますが、ここではF-Dur / d-Mollではなく、G-Dur / e-Mollでテーマが奏されます。この異なる調でのテーマの再現も、やはりそのままでは終わりません。後半部分を見てみましょう(譜例10)。

譜例10:《僕らのインベンション》T. 143 – 149

 譜例5と同じように、テーマの再現はe-MollだけでなくG-Durでの分析も可能ですが、ここではe-Mollで取っています。そうすることで、譜例10の中にNと記されている「ナポリの和音」が頻出することが見やすくなるためです。T. 146、147、148と何度も念を押すかのように「ナポリの和音」のカデンツが繰り返されると、突如As-Durへと転調します。はて、このAs-Durは一体何なのでしょう。
わたしが考えたのは、このAs-DurはG-Durに対する「ナポリの和音」に由来するのではないか、ということです。《僕らのインベンション》のテーマは冒頭ではF-Durかd-Mollか曖昧に、そしてT. 137からはG-Durかe-Mollか曖昧な状態でした。T. 146 – 148はe-Mollに対する「ナポリの和音」を実際に響かせ、T. 148以降はG-Durに対する「ナポリの調」としてAs-Durを顕現させることで、e-Moll、G-Durどちらの調に対しても「ナポリの和音」の空気をまとわせることになったのではないでしょうか。
そのため、このG-Durに対する「ナポリの調」であるAs-DurはT. 149 – 152の明確なドミナンテからトニカへ解決することなく、D-Durのトニカへと転調してしまいます。「ナポリの調」であるからこそ、明確なAs-Durの領域を作るためのカデンツを避けているのではないかとわたしは考えています。

さて、T. 153からはコーダです。
輝かしいD-Durのトニカの中で、第1エピソードの旋律が断片的に回想される、まさに「これぞコーダ!」と言えるようなコーダです。ここでは、最後にトランペットとホルンが駆け上って形成する和音(T. 163 -)に注目してみましょう(譜例11)。

譜例11:《僕らのインベンション》T. 162 – 167

 コーダはバス声部のトニカD音が保続される上で、ドミナンテが鳴り(T. 159 – 162)、それが解決した(T. 163)と思いきや、問題のT. 163の和音が響きます。この駆け上がった先の和音はEs・G・B音で構成されています。すなわち、これはD-Durに対する「ナポリの和音」です。そう、《僕らのインベンション》ではT. 44に現れた「ナポリの和音」が曲の終わりまで、ずっと影響を与え続けていたのです。
実は、このトニカを保続する中で「ナポリの和音」を鳴らすという技は、クラシック音楽の超名曲に見られます。それは、A.ブルックナーの《交響曲第9番》第1楽章のコーダです。ブルックナーの《交響曲第9番》も、d-Mollという主調に対し「ナポリの和音」が非常に重要な役割を果たしながら全体を構築していきます。《僕らのインベンション》も、ブルックナーの構造と同じように、全体の調の流れの中に「ナポリの和音」が介入するような形を取っています(図2)。

図2:《僕らのインベンション》調構造概略

 極めて計画的な構造を取っている《僕らのインベンション》ですが、しかし、それを感じさせない自然な流れで音楽が紡がれていく様子に気がつけると、宮川さんの力をひしひしと感じられます。
また逆に考えてみると、自然に流れているからと言って、そこに何か戦略やアイディアがないというわけではないということです。どのような作品も、一度先入観を取り払って楽譜と向き合い分析をしてみることで、聴いただけではわからない、あるいは演奏してみただけではわからない何かが見つかる可能性があるのです。《僕らのインベンション》は、そのようなことをわたしたちに気がつかせてくれる優れた作品です。
また、このような作品は、非常に多様な見方を提供してくれます。わたしは「ナポリの和音」に注目して全体を見たため、今回のような分析になりましたが、他の視点から見た時、《僕らのインベンション》はまた違った一面を見せてくれるのではないかと感じています。ぜひ、みなさん自身の視点でも作品と向き合ってみてください。

理論の在り方を、とても親しみやすい音楽で示してくれた《僕らのインベンション》、分析も楽しい作品でした。作曲者の宮川彬良さん、そして、読んでくださったみなさまにお礼申し上げます。ありがとうございました!


石原勇太郎(作曲・音楽学)
時に音を紡ぎ、時に言葉を紡ぐ音楽家見習い。東京音楽大学大学院修士課程音楽学研究領域修了。同大大学院博士後期課程(音楽学)在学中。主な研究領域は、アントン・ブルックナーとその音楽の分析。1991年生まれ。2014年、第25回朝日作曲賞受賞。Internationale Bruckner-Gesellschaft(国際ブルックナー協会)、日本音楽学会各会員。
公式サイト:https://yutaro-ishihara.com/】【ティーダ出版お取り扱い作品一覧

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